2026.07.25
社長ブログ
『一人前になる行事』
-わくわく新聞 2024年9月号コラムより― 今月もブレる事なく、大多数の方が興味の無い、全然どうでもいい、僕の事書きます!!「えい!何が悪い!!」&
2026.07.27
社長ブログ
WRITER石山 登啓
-わくわく新聞 2026年7,8月号コラムより―
いきなりですが父ちゃんの事書きます。
僕の父ちゃんは、昭和13年5月3日、
北は北海道の7人兄弟の長男として生まれました。

おじいちゃんは炭鉱掘りをしていましたが、早くに怪我をして入院してしまったため、
長男だった父ちゃんは小学生の頃から家族を養うために働き始めました。
真面目実直で責任感の強い性格で、自分のことなど二の次。
他の兄弟たちを学校へ行かせ、上京させるまで必死に働き続け、
最期までおじいちゃんとおばあちゃんの面倒を見ました。

そんな父ちゃんが働いていた炭鉱も、時代のあおりで閉鎖されることになります。
父ちゃんは、先に上京していた兄弟のツテを頼って30歳で東京へ出てきました。
真面目実直その目で、女遊びも博打も一切知らないピュアな男。
東京の大きさにひっくり返るほど驚き、初めて見るエレベーターの前で靴を脱いで上がり、エレベーターガールにチップを渡し……。

田舎丸出しのそんな父ちゃんが、友達の紹介という名のコンパに参加!
場所はサラリーマンのやけくその場、ビアガーデン。
そのメンバーの中に一際、ジョッキー片手にタバコをふかし、大きな声で笑い飛ばす男前の女性に一目惚れ!
思い立ったら吉日。
「みつよさん、僕と結婚してください」

ストレートなメッセージをアメリカのハプニングビデオみたく、みんなの前で告白。
それも出会ったその日。
「嫌です」

きっぱりみんなの前で断られたが、次の日も何もなかったかのように、家に押しかけていき、
笑顔で
「みつよさん、僕と結婚してください」
と、告白。

「私、昨日ちゃんと断りましたよね?」
と、ツッコミを入れさせないキングコング西野よりポジティブな父ちゃん、押し切られたのが僕の母ちゃんです。
水前寺清子と同じ「生涯独身」を周りに宣言していた母ちゃんでしたが、
この破天荒な押しの一手に、妥協することになり、
二人は結婚する運びとなります。

ただ、案の定というか、
父ちゃんのこの「空気を読めないポジティブさ」が災いし、
母ちゃんの家族や兄弟からは猛反対されてしまいます。

最終的に二人は「駆け落ちで南紀白浜」へたどり着きました。
当時の白浜は、いろいろと複雑な家庭環境を持つ人々が集まる街でもあったので、
両親にはむしろ住みやすく、同じような境遇の仲間たちと気楽に過ごせる良い環境でした。
白浜での暮らしは、社宅のある住み込みの仕事でした。
六畳二間、トイレは共同。
そこに姉、僕、弟の3人兄弟と両親、家族5人で身を寄せ合って暮らしました。
貧乏ではありましたが、両親の愛情を頂きながら育ててもらったと思います。

そんな我が家ですが、僕が小学校2年の時、大きな悲しみに襲われました。
当時10歳の姉が、弟の誕生日プレゼントを買いに行った帰り道に、バスにひかれて亡くなったのです。
深夜、病院から冷たくなって戻ってきた姉ちゃんを囲んで、
僕、父ちゃん、姉ちゃん、母ちゃん、弟の5人で、
“州”の字になって寝た夜のことを今でも鮮明に覚えています。
静まり返った部屋の中で、
父ちゃんがもう動かない姉ちゃんの胸を、何度も、何度も、泣きながら必死に心臓マッサージしていた姿が、
今も目に焼き付いて離れません。
姉ちゃんが亡くなってからの父ちゃんは、
それまで以上に実直に、黙々と仕事に打ち込んでいました。
職場は、鮎川の山奥にある宗教建築物を作る現場になり、
父ちゃんは毎日そこへ通って泥だらけになって肉体労働をしていました。

父ちゃんの口癖は、いつでも
「最高だ」
「ありがたい」
「腹いっぱい食え」
でした。
戦前、満足にご飯を食べられなかった時代を生き抜いてきた父ちゃんにとって、
子どもたちにお腹いっぱいご飯を食べさせてあげることこそが、
最大の「幸せ」の証だったのだと思います。

一方で、小学校・中学校の頃の僕は、
真面目で、ポジティブで、元気すぎる父ちゃんのことが、
実はあんまり好きではありませんでした。
嫌いというわけではないけれど、
友達に会わせるのがどこかこっ恥ずかしかったのです。
だから僕は頑なに友達に父ちゃんの存在を無かった事として、
周囲からはずっと「母子家庭」と思われていたほどでした。

そんな僕の心配をよそに、父ちゃんはいつも全力でした。
中学校の時、僕の同級生が家に遊びに来た時、
父ちゃんはみんなを喜ばせようと、
「これを、みんなで食べなさい」と、
なぜか「ごはんのおこげ」だけを持って部屋に入ってきたのです。
決して、京料理の炊き込みご飯のおこげとか洒落たもんではなくて、ただのおこげ。
「お父ちゃん、もう持って帰ってよ!」
と、慌てて部屋から追い出しましたが、
なぜあのタイミングでおこげだったのか、今でも謎のまま。

それ以来、僕の中学校でのニックネームは「おこげ」になりました。
父ちゃんのおかげで、僕は「おこげ」になったのです。
父ちゃんは声も独特でした。
どこから音が出ているのか分からない独特な声で、興奮するとキーが上がります。
まるで終戦のラジオから聞こえてくる玉音放送の昭和天皇のような声でした。

ずっと後になって、僕の結婚式で父ちゃんが親族代表のスピーチをしてくれた時、
参列した僕の友人は
「石山のお父さんのスピーチを聞いて、
初めて日本は戦争に負けたのだと思った」
と、言ってた!!

思ってたより長くなったので次回に続きます!
『お施主さまとは生涯のお付合い』だと思っております。人生で一番高い買い物。家の性能はもちろんですが、紀南地方は台風や雨・風が凄い地域。家を守る事と、お施主さま家族と人生の苦楽を共に生きる、生涯お付合いできる仲間を育てるのが私の使命だと勝手に思っております。家だけでなく、そんな暑苦しい会社ごとかってください!!
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